とある雑誌にとある人が書いていたエッセイを読んでいる中で、「記憶の抽斗にその日の光景はひとかけらも残っていない」というような一節があった。
「記憶の抽斗」というのはもちろん比喩であることはわかっているのだけれど、もしかするとこのエッセイの作者は自分の記憶を辿るとき、抽斗の中の写真を探すように思い出していくのかな、とふと気になった。
自分にとって映像的記憶は、視界の中のごく一部分の光景が突然目の前に飛び出してくるように蘇る。
今朝の朝食(ジャムサンドのジャム)。
電車で目の前に座っていた人(右耳のほくろ)。
子供の頃に遠足で見た山羊の目(水準器みたいに水平だった)。
そんな部分部分のみの映像があいまいにぼんやりと映像化される。
これは言語的に憶えていたものを再構築して映像化しているのか?
あるいは、純粋に映像として記憶しているのか?
人によって記憶の思い出し方に違いがあるのか?
よくわからない。
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